青木功

12. 青木功〜世界のAOKI    
 

青木功

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「世界のAOKI」…今では誰もが青木功プロにつける"形容詞"をこう示します。
これは、アメリカツアーで残した業績として第一にあげられる、1980年の全米オープンで"帝王"ジャック・ニクラウス相手に死闘を演じ、2位となったところからはじまりました。また、83年のハワイアン・オープンで劇的な逆転優勝を遂げたこともそうです。

私も中学生だったかな、何度もニュースで報じられる、あのチップ・イン・イーグル、青木功プロが最初はキョトンとしていて、グリーン周りの歓声でガッツポーズ!の場面は今でも昨日のことのように思い出されます。当時はゴルフになんて全く興味を持たない、一中学生だったのに、それだけ強い印象を持っています。

しかし、青木功プロも人間、最初から恵まれていたわけではありません。

青木功プロがプロテストに合格したのは22歳、1964年のことです。
我孫子ゴルフ倶楽部でキャディをしながら19歳からプロテストに臨み続け、4回目の挑戦でようやく合格しました。
このプロテストを受けた動機は、師匠でもある林由郎プロが終戦直後、アメリカツアーで好成績をあげていて「俺もプロになれればアメリカにいけるかも」と思ったからだそうです。

しかし、ようやくプロ入りしたものの、7年間は泣かず飛ばずの競技生活が続きます。

1971年、関東プロで初優勝。ここからはまるでトンネルを抜け出したかのように、「優勝」をもぎ取っていきます。
73年には日本プロ、中日クラウンズなど年間6勝し、賞金ランキングも2位。(1位はジャンボ尾崎)
この活躍が認められて、マスターズから招待状が届き、これが青木功とアメリカとの出会いとなります。

「前年6勝もしているし、日本じゃ恐いもの知らず。自信を持っていた」
しかし、練習場で280ヤード先の同じポイントに軽く球を落としていくアメリカツアーの選手達に驚きを感じます。
結果、初挑戦のマスターズは74、80で予選落ち。

77年のマスターズでようやく予選を突破。結果は28位でしたが、決勝ラウンド(3日目、最終日)を70、70で回って手ごたえを掴みます。
78年、79年の全米オープンでは8位に入り、少しずつアメリカコンプレックスが薄らいでいきます。

そうした中の80年、全米オープン。場所はニュージャージー州・バルタスロールゴルフクラブ。
青木功、37歳。国内で31勝をあげ、76年、78年、79年と国内で賞金王に輝くなど、このときばかりは「敵なし」状態でした。海外でも78年の世界マッチプレーに優勝、翌年は2位と手ごたえを感じてきていた、まさにそういう時でした。

青木功プロは予選をジャック・ニクラウス、ジーン・リトラーと組みます。
初日は、ニクラウスが7アンダーの63で首位タイ。青木プロは2アンダー、68で9位タイ。
2日目は、ニクラウスがショット、パットに苦しみながらも1オーバー、71で首位を堅持。
青木プロは13番から18番まで6ホール連続1パットをするなど、4アンダー、66で2位タイに浮上。首位ニクラウスとは2打差。

決勝ラウンドの組み合わせは予選の成績順で決められます。
予選2位タイの青木プロは首位のニクラウスとのペアリング。これで3日連続の同組です。

3日目はニクラウスが前半リードし、独走態勢に入りかけましたが後半崩れ、結局70。
青木プロはこの日も上がり2ホール(17番、18番)でバーディを決め、この日68。とうとうニクラウスに追いつきます。

最終日、当然ニクラウスと青木プロは同組でスタート。
2番で青木がボギー、3番でニクラウスがバーディとし、2打差。アウトは結局ニクラウス36、青木38。
インに入ると、それまで乱れがちだったニクラウスのショットが良くなりだします。
青木プロはアプローチが冴えまくります。
10番、ニクラウスがセカンドをピン右1メートルにつけると、青木プロはグリーンエッジから転がしてチップイン、ともにバーディ。
11番から16番まで両者共にパーを続けます。

17番は全米オープンが開かれるコースの中でもっとも長く、もっともバーディの出にくい、630ヤード(!)パー5のロングホール。
ここで両者共にバーディ。勝負は最終18番に持ち込まれます。

青木プロは追いつくにはもうイーグルを出すしかありません。
サンドウェッジで打った第3打はピンに真っ直ぐ向かって飛んでいきます。
しかし、カップをなめて1メートルオーバー。
ニクラウスは3メートルの位置に3オン。ニクラウスはこのパットをねじ込み、バーディ。これで勝負あり。(青木プロももちろん1パットでバーディフィニッシュ。)

普通のプロなら"帝王"ニクラウスと4日間、同組でプレーしていたら自滅してしまっていたかもしれません。それを青木功プロは堂々と対峙し、自分のプレーに終始徹底しました。
また、日本ではなく、アメリカ。ギャラリーのほとんどがニクラウスの優勝を信じて疑わなかっただろうし、青木には「ミスして欲しい」と願っていた人も1人や2人ではなかったはず。

敵地でこれだけ素晴らしいプレーを堂々と展開した青木プロは「負けて株を上げた」わけです。

予選を終えたとき、青木プロは「ニクラウスという有名なプレーヤーと予選ラウンドを同じ組で回った印象は?」と聞かれ、「私も有名なプレーヤーですからね」と答えたそうです。

「100ヤード以内なら世界一」「パットの名人」と言われるようになったのもこのころからのようです。

1983年にはハワイアンオープンで念願の優勝を手にします。
まさに劇的とも言える、最終ホールで第2打を直接カップインさせての素晴らしいものでした。

青木功プロは今もなお、現役プロゴルファーとしてアメリカシニアツアーその拠を置いています。
国内ツアー56勝、同シニア4勝、海外ツアー4勝、同シニア9勝の通算73勝。

2004年には日本人として樋口久子プロに続き、ゴルフの世界殿堂入りを果たしています。

 

 

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*写真と本文は一切関係ありません。

 
   
 
             
                     
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