青木功 |
||||||||||||||
| 12. 青木功〜世界のAOKI | ||||||||||||||
青木功 |
||||||||||||||
| TOPページ>青木功〜世界の青木 | ||||||||||||||
「世界のAOKI」…今では誰もが青木功プロにつける"形容詞"をこう示します。 私も中学生だったかな、何度もニュースで報じられる、あのチップ・イン・イーグル、青木功プロが最初はキョトンとしていて、グリーン周りの歓声でガッツポーズ!の場面は今でも昨日のことのように思い出されます。当時はゴルフになんて全く興味を持たない、一中学生だったのに、それだけ強い印象を持っています。 しかし、青木功プロも人間、最初から恵まれていたわけではありません。 青木功プロがプロテストに合格したのは22歳、1964年のことです。 しかし、ようやくプロ入りしたものの、7年間は泣かず飛ばずの競技生活が続きます。 1971年、関東プロで初優勝。ここからはまるでトンネルを抜け出したかのように、「優勝」をもぎ取っていきます。 「前年6勝もしているし、日本じゃ恐いもの知らず。自信を持っていた」 77年のマスターズでようやく予選を突破。結果は28位でしたが、決勝ラウンド(3日目、最終日)を70、70で回って手ごたえを掴みます。 そうした中の80年、全米オープン。場所はニュージャージー州・バルタスロールゴルフクラブ。 青木功プロは予選をジャック・ニクラウス、ジーン・リトラーと組みます。 決勝ラウンドの組み合わせは予選の成績順で決められます。 3日目はニクラウスが前半リードし、独走態勢に入りかけましたが後半崩れ、結局70。 最終日、当然ニクラウスと青木プロは同組でスタート。 17番は全米オープンが開かれるコースの中でもっとも長く、もっともバーディの出にくい、630ヤード(!)パー5のロングホール。 青木プロは追いつくにはもうイーグルを出すしかありません。 普通のプロなら"帝王"ニクラウスと4日間、同組でプレーしていたら自滅してしまっていたかもしれません。それを青木功プロは堂々と対峙し、自分のプレーに終始徹底しました。 敵地でこれだけ素晴らしいプレーを堂々と展開した青木プロは「負けて株を上げた」わけです。 予選を終えたとき、青木プロは「ニクラウスという有名なプレーヤーと予選ラウンドを同じ組で回った印象は?」と聞かれ、「私も有名なプレーヤーですからね」と答えたそうです。 「100ヤード以内なら世界一」「パットの名人」と言われるようになったのもこのころからのようです。 1983年にはハワイアンオープンで念願の優勝を手にします。 青木功プロは今もなお、現役プロゴルファーとしてアメリカシニアツアーその拠を置いています。 2004年には日本人として樋口久子プロに続き、ゴルフの世界殿堂入りを果たしています。
|
*写真と本文は一切関係ありません。 |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
日本ゴルフの歴史 |
スポーツな人生 |
|||||||||||||
|
||||||||||||||
スポーツなリンク集 |
||||||||||||||
|
||||||||||||||