デビッド・イシイ プロは日系3世。体格も日本人体系でがっちりともしていません。
「デビッド・イシイはプレーが遅いですよね」とテレビの解説者が言っていたのを何度も耳にしたことがあります。これは私が思うにデビッド・イシイご本人の穏やかな人柄によるものであり、決して意図して遅らせようとしているわけではありません。また、日本人の血が流れているのでしょう、プレー中にミスをしてもほとんど表情を変えません。そのセルフ・コントロールはさすがプロと思わせるものがあります。
デビッド・イシイ プロはハワイ・カウアイ島生まれ。
6歳で地元の少年ゴルフ大会に優勝、8歳までにカウアイ島の小さな大会で15回も勝ったそうです。血練習の賜物とは思いますが、素直・忠実に教えてくれた日系2世の方の教えを守り、練習に励んでいたようです。中学・高校時代にはハワイジュニアで優勝し、世界ジュニアでも2位に入る活躍を見せました。 大学はアメリカのヒューストン大学に進み、76、77年に全米大学選手権で個人優勝し、77年には主将としてヒューストン大学を大学対抗選手権優勝に導きました。 しかし、プロゴルファーへの道のりは簡単なものではありませんでした。
アメリカのプロテストには5回連続して不合格。「ゴルフをやめようか」と思い悩んでいるところへ、当時、ハワイ・オアフ島にあるパールカントリー・クラブの経営をしていた本田開発興業の社長、尾形次雄氏に声をかけられ、日本ツアーへの挑戦がはじまります。 日本ツアーデビューは1980年。
当時は現在と違い、日本ツアーは外国人に門戸を開放していませんでした。どうやってデビッド・イシイプロは参戦したのか?
今もシード権を持っていないプロに対してはそうですが、主催者かスポンサーの推薦がないと参加が出来ませんでした。尾形氏はデビッド・イシイ プロを推薦枠に入れてもらうように2人で東奔西走したそうです。デビッド・イシイプロは当時日本語もあまり話せない、肝心なところでミスが出て予選通過もままならない、競技が終わるとホテルに閉じこもってしまうという生活が続きました。
2人の努力がようやく実るのは日本ツアー参戦6年目の85年、東北クラッシックでした。
86年には中日クラウンズなどで3勝。87年には日本プロ、日本シリーズなどで計7勝をあげ、賞金王になりました。この87年は日本ゴルフ協会が外国人制限条項を撤廃、外国人プレーヤーに門戸を開放した年でもあり、その記念の年に賞金王に輝いたわけです。 90年にはハワイアンオープンで優勝。故郷に錦を飾ることが出来ました。 デビッド・イシイプロが親しいプロとして真っ先に名前を挙げるのが秋富由利夫プロです。
この秋富プロに言われた一言でデビッド・イシイプロはハッとさせられます。
(これがいい言葉なんです・・・) 「デビッド、人間には二つの生き方がある。自分のありのままを認めてベストを尽くすか、自分以外のものに憧れて一生を終わるか。オレは自分のありのままの中でベストを尽くすことにしているんだ」
(日本経済新聞社刊、久保田誠一著「日本のゴルフ100年」より) デビッド・イシイプロは子供のころからアーノルド・パーマーやジャック・ニクラウスに憧れていました。筋肉もあり、身長も体重も、理想的なスポーツマン。なぜ私は「アメリカ人」でなかったのかと悔やんだこともあったそうです。 「秋富プロのこの一言からスタートしたといっても過言ではない」
自分がやれることをやるのが本当に意味でのベストを尽くすことなんですね。
デビッド・イシイプロだけでなく、私の心の中にもズシンときたコトバでした。 |