岡本綾子〜アメリカの日本人初賞金女王
TOP>岡本綾子〜アメリカの日本人初賞金女王
女性プロゴルファーの先駆者が樋口久子プロであれば、日本人として唯一、
アメリカツアーの賞金女王に輝いているのが、「世界のアヤコ」こと、岡本綾子プロです。
岡本綾子プロは中学、高校、実業団(大和紡績)とソフトボールのピッチャーでした。
1971年には国体で"エースで4番"として優勝しています。
ただ、この優勝を境に、岡本プロの興味はソフトボールから離れていきます。
そんなとき、会社の上司に連れて行かれたゴルフ練習場が縁で、プロゴルファーを
目指すことになります。
会社を辞め、ゴルフ練習場で見よう見まねでボールを打つ生活が始まりました。
左利き(もちろん、ソフトボール時代もサウスポーピッチャー)でしたが、
ゴルフは右で打ちます。
ボールはどこに行くか、方向性は安定しなかったようですが、当たったときの
飛距離は男性を凌ぐものを持っていたようです。
知人の紹介で大阪・池田市にある池田カンツリー倶楽部で研修生になったときには22歳でした。
いまでこそ、年齢的なハンデはなくなったものの、当時としてはプロに挑戦するには遅すぎる年齢。
しかし岡本綾子プロは全く気にしていなかったそうです。
ソフトボール時代はチームプレーを気にして、他人を気にしてプレーすることが
多かったのですが、ゴルフは自分のペースで出来るので性に合っていたのでしょう。
プロテストには1974年に受験。今とは違って当時は年に2回テストがあり、
1回目は落ちましたが、2回目で合格。
なんと池田カンツリークラブで本格的に練習を始めてから22年経っていませんでした。
1975年のデビュー戦、美津濃新人トーナメントで4位。日本女子プロでは12位。
しかし、いきなり11月の美津濃トーナメントで優勝します。
1977年、「樋口プロ、全米女子プロ優勝!」のニュースが入ってくると、
岡本プロは「アメリカのツアーに挑戦したい」と公言します。
そして翌78年にはアメリカツアー予選会に挑戦しますが、あえなく予選落ち。
夢は一旦遠のきますが、1981年に再挑戦。そして4位で予選を突破します。
ただし、1年間アメリカでプレーするつもりはなく、7つの大会に出場しただけで
日本ツアーに復帰し、9月末の日本女子プロで予選落ちするまでなんと1度も
ベストテンを外れることなく7勝!しました。
結局1978年には8勝、賞金額も3,000万円を越えました。
1982年にもアメリカツアーに9試合参戦、念願の優勝を第5戦の
アリゾナコパークラシックで飾りました。
これで気持ちを強めた岡本綾子プロは翌年から日本を離れ(女子プロ協会に休会届けを提出)、
アメリカツアーに本格参戦をします。
樋口プロが10年間、4〜6までアメリカでプレー、その後は日本でという形ではなく、
アメリカにどっぷりつかる、というものでした。
1983年にはツアー2勝目。必ず最終日(日曜日)にスコアを伸ばしてくるところから
「サンデー・アヤコ」と呼ばれるようになります。
1984年は初めから好調でした。
4月のJ&Bプロアマ、メイフラワークラシックに優勝、10月にはイギリスで
全英女子オープンに優勝。
1985年も開幕戦で2位になった後、16戦中ベストテンが6回と安定していましたが、
ここ6,7年続いていた腰痛が悪化、休養を余儀なくされました。
8月には第4、第5腰椎の間にパパイアから抽出したゼリー状の酵素を注入する治療を受けました。
1986年は「サンデー・アヤコ」復活の年になりました。
それまでのスイングと違い、今の岡本綾子プロのなめらかでゆったりとした、
大きなスイングでリキみや無駄のない、贅肉の取れたフォームになったのです。
初戦では16位でしたが、第2のエリザベスアーデンクラシックでは2日目67のベストスコアを
出してトップに立つと12番から17番までバーディチャンスの連続でスコアこそ2位とは
1打差だったものの、見事な優勝を遂げました。
そして1987年。
キーストンオープンで最終日に8打差をひっくり返して優勝するなど5勝をマークし、
念願の賞金女王になります。
「考えてみれば、アメリカへ行けるかも知れないという<不純な>動機で始めたゴルフです。
だけど、今は本当に心からゴルフが好きだと言える。
『アメリカへ行く』というわたしの<夢>が、わたしにゴルフのすべてを教えてくれた
のだと思っています。
(87年)11月8日、武蔵丘ゴルフコースの18番グリーンで、わたしのUSLPGAツアー賞金女王
達成が決まり、集まったゴルフ仲間がわたしをかつぎあげて祝福してくれました。
……あんなに感激したことはありません。
私の<夢>がかなったことを、小さいときからずっと憧れてきたアメリカが、盛大に
祝ってくれたのですから……」
(「賞金王までの7年」「日本のゴルフ100年」日本経済新聞社刊、久保田誠一著より抜粋)
